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① 福島県南交通バス 白河駅前にて'60年9月11日撮影
国鉄バスのコーチ型では日野の床下エンジンやいすゞやふそう製などの後部エンジン以外は確認していないのですが、この2台は多分運転席のすぐ横に大きく膨らんだカバーの中にエンジンが設置されたキャブオーバータイプのようで、まだまだ運転席から遠くはなれたエンジンをコントロールするには技術的に難しかったのでしょうか。メーカーはどこなのかはっきりしませんが、ひょっとしたらトヨタかもしれません。 ![]() ②ロンドン2階建バス 八重洲口にて’69年8月撮影 東京で英国フェアーが開催されたとき英国から運ばれたロンドンの2階建バスで、国鉄バスの撮影に行った時のものです。何年か前にロンドンでこのタイプのバスにも乗りましたが、最後部に設けられた階段がかなり急だったこと、車掌は1階にしかいないこと、下車の合図は車内に張られた紐を引くこと、バスストップの名前は忘れてもホテルの名前を言えば停車してくれたことなどなど、10年程前のことなのですが懐かしく思い出されます。ロンドンではこのタイプのバスは既に廃止され、全てドアーの付いた2階建バスに替わったそうです。 それにしても日本のバス、一部の例外区間を除いて全長12メートル以下、15メートルとまではゆかなくても諸外国で見られる13.5メートルに比べても迫力に欠けるように思います。道路事情も良くなっているし、もうそろそろ全長の規制を緩めてはいかがでしょうか。最近私の住んでる町(市)でも中型バス(国鉄式にいえば3xx)が少しづつ導入されてきました。バスの場合大は小を兼ねるのですが、小は大を兼ねることはできませんが。大気汚染とか騒音とか世間の情勢から導入されたと思うのですが。 ![]() ③濃尾バス 下呂温泉にて’61年10月頃撮影 入社して最初の年、課内旅行で下呂温泉へ出かけました。私がバス好きだと知ってた同僚が教えてくれたので急いで撮影しました。私が自分で現物を撮影した一番古いバスです。ラジエーターむき出して強いてグリルといえば4本のバーだけ、多分昭和22、3年頃の製品ではないでしょうか。でもライセンスプレートもきちっと取り付けられています。でも10年以上も使われていると見えて、タイアを始めあちこちに寄る年波を感じさせます。この写真、少し加工して自分がバスファンだったことを一刻も忘れることが無いようにと、マックの壁紙に使っていました。 ![]() ④ 車番不明 三田市母子近郊にて’00年ごろ撮影 やっとJRバスが出てきました。あちこちで営業所は廃止になり、国鉄バスファンにはとっても寂しい限りなのですが、このような廃車になって農家の物置代わりに使われているのを見るとむなしさも倍増してきます。このような風景はあちこちで見られるため、珍しいことではないのですが、広い意味での資源の再利用だと思って自分を納得させています。 ![]() ⑤ 537-2557 館山営業所にて’60年代後半撮影 あちこちで見られる観光用のトップドアーバスです。ライセンスプレートナンバーがちょうど1000番というだけで、現在のように希望番号制度が採用されていれば特に注目することもないのですが、その制度が無い時代、0を3つ並べるためにはその確率は1/1000と結構大変??? いま懸命にアルバムを探しているのですが、五条と新宮を結んでいた国鉄バス五新線の開通初日乗車時の写真、みつかればアップします。 今まで国鉄バスを中心に何枚かの写真を見ていただきました。思いつくままにコメントしましたので、後で読み返してみるとつじつまがあわなかったり、間違い(部外者が部外からみた独断ですのである程度は大目に見ていただけるとして)があったり、誤字、脱字、仮名使い、テンスの不一致などなど。もう一度しっかり読み直して少しづつ仕上げてゆきたいと思っています。写真も一部はプリントアルバムから取り込んだので画面が汚く感心しません。フィルムからしっかり取り込んで、出来ればもう少しきれいな写真を準備したいと思います。 ![]() △△ あまりにも偏りすぎたくだらない写真をながながと見ていただきありがとうございます。 引き続きqqmemoir2を準備しましたので、こちらもよろしくお願いします。 # by qqmemoir | 2006-05-01 08:49
①543-37 篠山宇土観音バス停付近 50年代半ばの撮影
道路の舗装がまだまだ十分でなかった頃です。道路は洗濯板のように凹凸ができ、乾燥していると大変な砂埃なのですが、この日は少し湿り気があると見えて砂埃はたっていません。このバスは543-36とともに篠山営業所に最初に導入されたコーチ型で、一部路線の重なっていた神姫バスには既に何両かのキャブオーバー型が導入されていましたので、国鉄バスファンにとっては待ちに待ったコーチ型だったと思います。方向幕が低い位置にあったのと、後部最上部に大きなエンジン室への空気取り入れ口があったのが外観上の特徴でしょうか。 ![]() ②顕彰碑 水口営業所近郊にて’50年半ばの撮影 水口営業所は市街地の中心部から、国道1号線沿いの広い場所に移転しました。そのすぐ裏山は公園になっており、途中にこの菅健次郎氏の碑が建てられています。説明によると氏は水口出身で、国鉄(省營)バスの創設に尽力されたようです。 何かで知ったのですが、愛知県の瀬戸市近郊にも国鉄バス創設者(?)の碑があるそうですが、そちらは多分瀬戸市近郊の国鉄(省營)バスが、日本で一番早く営業を開始した場所なので、その行為に対して建立されたと思われます。 ![]() ③583-7501 新居町駅前にて’50年代半ばの撮影 以前からいろいろと改良は加えられていたとは思いますが、基本的には車体を懸架するスプリングは金属、それに替わって空気の圧力でスプリングの役目を果たそうと開発されたのが空気バネ、メーカーによりいくつかのタイプがあったようです。これは国鉄で最初に導入されたエアサスのバスです。画面では確認し難いのですがちょっと奥目の583型 懐かしいですね。57年式としては新居町以外では確認していません。58年になるといくつかの営業所にも導入され、さらに59年には導入されたバスの大半がエアサスになったようです。58年まではボンネット型のバスも導入されたのですがそれ以降はコーチ型だけで、エアサスのボンネット型は無かったようです。 ![]() ④ 一関にて’62年10月撮影 東北地方の主要都市一関です。 今から約50年近く前の姿です。天候のせいもありますが、どことなく石炭の匂いが漂ってくるような気がします。バスが一台トラックが二台、貨物輸送も活発だったのですね。両国のように貨物だけを取り扱う営業所もあったようです。このトラックのようなテント地による幌、最近は余り見かけなくなりました。 ![]() ⑤513-0612ほか名古屋営業所(支所?)にて’60年代半ばの撮影 名古屋と瀬戸市を結ぶ路線は、主として瀬戸営業所の受け持ちだったようで、また営業所自体が市街地にあったためか、名古屋営業所(支所?)はこのようにちょっと寂しい感じがします。写っているのは手前が513-0612、一番奥が673-1516です。 ![]() ⑥413-1906 落合にて’60年代半ばの撮影 国鉄バスを写真に収めるべく四国を一回りしたときの様子です。高知から松山へ向かったのですが、途中で三輪トラックが、道路脇の窪みに車輪をとられしばらく時間をとられたりと、アルバムにはいろいろと当時の雰囲気が収められています。道路事情も良くなかったこの頃、たとえ10分でも早く目的地へ着きたいというようなときには、この特急バスも重宝されたのでしょうね。座席指定やエアコン装備もきっと評価されていたと思います。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-30 10:42
① 331-5501 篠山町内にて’66年頃撮影
篠山川を挟んで対岸からS社の望遠ズームレンズで撮影したものですが、画質がもう一つも二つも満足できません。そのS社もとっくの昔になくなりました。このバスの塗色は白と濃いピンクとグレー、かなり派手な印象でしたがこのような小さなバスには合っていたのかもしれませんが、数も少なく長続きしなかったように思います。コーチ型では一番小さい方ですが、エアサスも付いて座席優先のサービス重視、国鉄バスとしては一番力の入っていた頃ではなかったでしょうか。 ![]() ② 477-7031ほか 宇都宮営業所にて’66年4月撮影 477型ばかりの配車群、これだけ同一車種が並ぶと見応えがしますね。舗装もされていない敷地、中程の窪みにはゴミらしきものも見られます。約10年間地域の人たちの大切な足として働いてきたこれらのバスそろって廃車のようです、後はスクラップになってまた次の製品として利用されるものと思います。でもライセンスプレートは取り外されていますが、車体側面のツバメマークや社番もそのまま残されているのもあります。ひょっとしたら他府県への配置換えでしょうか。いずれも導入後10年近く経っていますからその可能性は薄いと思われます。左から477-7031、6010、7030、xxx7、7029です。 ![]() ③543-909 山口営業所にて’50年代半ばの撮影 関門トンネルの開通により、博多と山口を結ぶ路線関門急行線が営業開始に伴い導入されたバスです。車番を特に900番台と区別しただけあって、外観上も普通の543型よりボディが長くなっています。まだ付番基準に年号が入っていない頃です。当時の時刻表によると所要時間は4時間55分で、料金は500円とあります。なんとかして5時間を切りたいという努力の跡のようにも読み取れますが。 ![]() ④743-8007 海田市営業所にて’64年3月29日撮影 上記③と同一車種と思われます。 山口、福岡だけでなく広島にもということで1年遅れて導入されました。この間に付番基準が改められ、この長尺ボディには743が割り当てられています。本格導入とはいえなかったようですが、あちらこちらに500番台のエアサス車も導入されているのですが、この743型はリーフ、他社には余り見かけられなかったタイプだけにエアサスには踏み切れなかったのでしょうか。このように大きなバスなのに方向指示器はまだ矢印形のバーが横に出る腕木式、今から思うと滑稽ですね。 ![]() ⑤437-9140 浦河にて’64年10月撮影 襟裳岬をぐるっと回ったときに撮影しました。広尾で一泊したのですが、この時期にしてはかなり暑かった記憶があります。手前の横断歩道のパターン、市松模様のようになっていますが、いまは単なる縞模様ですよね、確か。 ![]() ○ 終戦直後食料事情の良くないときに、私の住んでる町に食糧営団の事務所があり、そこには黄緑色のトラック(3トン積みぐらい)が配置されていました。T貨物、銀バス、Sバス、国鉄(省營)バス以外で個人所有といえばT油店の小型トラックぐらいしか覚えていません。その頃の自動車といえば、故障していても当たり前のような時代だったのに、この食糧営団のトラックだけは一度も故障をしたのをみたことがないという記憶があります。点検が十分されていたのでしょうか、大切に扱われていたのでしょうか。 # by qqmemoir | 2006-04-29 09:55
①513-4050 金沢営業所にて’61年12月撮影
私の住まいから比較的近い場所にありながら、今まで一度も訪れたことの無い金沢営業所、道順などは忘れましたが、金沢駅からは裏手の方にかなり離れた場所にあったように記憶しています。このバスもいすゞのかなり古い形、私の写真の中では年式の確認できるいすゞのコーチ型としては一番古い54年式です。前部もいろいろとデコレーションが付いています。ライセンスプレートはオレンジ色に黒文字の小板タイプ、でも車体には大板も取り付け出来るように準備はされているようです、それともこれはデコレーションの一部だったのでしょうか。 ![]() ②671-9019 館山営業所にて’60年4月29日撮影 入社して最初の祝日を房総半島館山での国鉄バスの写真撮影に出かけたようです。方向幕には本館山となっています。国鉄バスの駅名には本館山、本篠山などのように本と付くのがいくつか見られます。本の付かないのは鉄道の駅のようです。鉄道では同じ市内の駅に市の名前をつけるときには新△△と言うのが多いようです。東京の中央線では快速と特別快速、大阪の東海道線などでは快速と新快速、名古屋では快速と特別快速と新快速、関東関西双方の良いとこ取りでしょうか。 ![]() ③513-7119 陸前高田駅前にて’63年9月撮影 方向幕は臨時便となっていますので、学生相手の増車なのかもしれませんが、窓からの降車、子供だとはいえまだこの頃は見られたのですね。私の経験したのは、さらに後の昭和50年代前半土曜日などよく帰社時に高校生とよくバスに乗り合わせました。そのとき住宅地をひかえた南陽台バス停では、早く降りた学生が窓から後の方から降りる友達に定期券を手渡しているのを目撃したことがあります。 ![]() ④643-0549 広島駅前にて’60年代前半撮影 このバスは本シリーズ11⑧で見ていただいたバスです。私の知る範囲では国鉄バス唯一の軽合金バスなのですが、この時点では標準色に塗り替えられていました。軽金属の金属色のまま無塗装で活躍した期間は余り長くは続かなかったようです。昭和39年9月のメモによると、部外者が部外からみた塗色には大別して5つのタイプがあったようです。 1. ボンネット型の全て、ダークグリーンとクリームの2色塗り分け 2.ダークグリーンとクリームに加えて金茶色の3色塗り分け、3.窓周り淡いクリーム、屋根と腰周り赤みがかった桃色、下部淡いネズミ色で塗り分けは水平に直線的 4.ピンクとグレーと白の三色塗り分けで中程に白とグレーがクロス、中距離用のリクライニングシート付き 5.ブルーとグレーと白の高速バス。3、4の赤系統のバスは数的にも少なく長続きしなかったように記憶しています。 ![]() ⑤番号不明 海田市営業所にて’61、2年頃撮影 海田市営業所の一番端っこにこのバスを見つけました。フロントガラスなどは2台ともきれいに取り外され、流用を考えていたのでしょうか。フロントガラスの形状や方向幕の位置などは、54年式とよく似ているのですが、54年式と違って方向幕の左右に伸びる5本のメッキグリルが無いことと、フロントガラス部に外部の日よけの庇が無いことです。番号が写っていませんのではっきりは分からないのですが、多分53年式、だとすると三菱車では私の写真の中で唯一のものです。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-27 16:22
① 534-0527 園部駅前にて’67年1月8日撮影
地図の上からは京都府のほぼ中央に位置する園部、気候的には山陰地方の気候に近いようです。この日も少し雪が降ったと見えて前部には正月飾りも雪をかぶっています。わずかに後輪にチェーンを巻いているのが見えますが、積雪のない道路での走行は乗客にとってはあまり好ましないようです。またチェーンの取り付け取り外しもタイアが大きいだけに大変だと思われます。今年は非常に雪の多い一年でした。雪のことで忘れられないのは、本当にずーと昔、思い出してみると昭和40年代半ば、私の勤め先が手狭になり、本社部門をあの霞ヶ関ビルに移すことになりました。日本で最初の高層ビル36階建てのオフィスビルの24,25階と26階の一部を借りることになり私も24階の事務室でデスクワークをしていました。地下鉄虎ノ門駅からオフィスまで歩いて数分、ある時東京の都心にも雪が積もりました。地下鉄を降りてオフィスまで雪の積もった歩道を転ばないように賢明に努力したのを覚えています。その年の夏頃だったでしょうか、アルコール分のないビールの試飲会がビルに隣接した建物の中でおこなわれ試飲したのを覚えています。いまもノンアルコールビールが市場に出回っていますが、私の口には.......これならまだトマトジュースのほうがいい。 ジュースのことで思い出すのは、もう10年近く前ベトナムへ観光旅行に行きました。 ホーチミン市内の観光を終え、暑さを避けて喫茶店で一休み、何か日本にはないような珍しいジュースを飲もうということになり、メニューを見るといろいろ書かれている中でキューカンバのジュースというメニューを見つけました。しばらくしてキューカンバのジュースがテーブルに置かれました。そのとき持ってきたお姉さんが何か薄笑いをしているように見えました。そして届けられたジュースを飲んでみたのですが、ただただ青臭くってとても飲めたものではありません、キューカンバの意味を恥ずかしながら理解できていなかったためと、キット何かいい飲み方があるに違いないのですが、それも知らなかった。 ![]() ②213、342ほか福知山派出所にて’50年代中頃撮影 国鉄のバス部門の現場組織として、営業所がありその下部組織として派出所、支所があるようでした。派出所と支所は組織的に上下関係があるのか、時期的に名称が変更になったのか部外者には分かりません。福知山は檜山営業所福知山派出所となっていましたが、現在は逆転しています。確か最近檜山支所は廃止されたように思います。派出所は福知山駅を出て左手に進むと直ぐのところにあり、今でこそ敷地内はきれいに舗装されていますが、当時はただの空き地にバスが停まっているという感じでした。でもJRになってからの合理化で次々と営業所が廃止されてゆく中でここは今のところ安泰、ズーッとこの状態が続くといいのですが。方向幕の部分の塗装が違うだけでずいぶん受ける感じが違います。中央のが明るくて両端のが暗い感じがします。右手の建設中の建物は病院だったと思います。 ![]() ③673-8091 一関駅前にて’62年10月撮影 今は新幹線が通る一関の45年前の姿、駅前の寿司屋に向かうのでしょうか一人の男性、最近の一関はどうなっているのか知りませんが、少し裏通りに入るとこうした情景も残っているといいのですが。舗装のない広場といい、放置された多くの自転車といい時代を感じさせます。58年式のバスですから当然ウィンカー式の方向指示器ではなく腕木式で矢印の形のバーが水平方向に飛び出す方式でした。よほど注意してないと見落とすかもしれません。前部と後部屋根には中央に3つと左右に一つづつのライト、今の大型車のように意味のあるものではなくただ単なる装飾???だったと思っています。 ![]() ④ 534-6503 直方営業所にて’60年代後半撮影 直方と博多の間にはかなり頻繁に国鉄バスが運転されているのを時刻表で知りはりきって出かけたものでした。バスの直前で子供達が石を積んで遊んでいます、のんびりしていたのですね。この子供達も今は働き盛り、年月の過ぎるのが本当に早いと感じます。 ![]() ⑤ 仙台営業所 ’62年10月撮影 東北地方の中心地仙台だけあって、バスの営業所の車庫も立派、でもまだ舗装はされていません。それよりも気になるのは左端のバス、塗色からみて国鉄の営業用のバスではないようです。事業用に使用されているのかもしれません、いずれにしてもかなり古い形、いすゞの’53、4年ごろ製品だと思われますが。 ![]() ⑥521-8008 坂の市にて’60年代後半撮影 合理化の一つだったのでしょう、少しづつワンマンカーが導入され始めました。国鉄バスで最初にワンマンカーに出会ったのは光市でした。勿論ツードアーで塗装も車体中央の金茶色の部分を二つに分割し区別していました。ここ坂の市でも少なくとも’67、8年型の数台のワンマンカーが導入、運用されていました。塗色も側面の金茶色の部分の幅に段が付き、特に前方から見た感じはずいぶん明るく軽快になりました。この塗色はワンマンカーを意識したものではなく、新しい標準塗色として制定されたもののようで、あちこちで見かけました。 ![]() △△ 20年程前のことです、京王線で通勤していたのですが、途中のC市の駅前の書店では店の前に置かれた通勤客の放置自転車に困ったと見えて、その場所に「不要自転車置き場」と書かれていたのを思い出しました。逆手を突いて効果があったのかも。 # by qqmemoir | 2006-04-25 17:55
①51x-xxxx 美濃白鳥にて’69年秋頃撮影
窓に貼付けられた紙切れには、ルーペをあてると辛うじて「中部xx第103号 廃車 昭和44年8月31日」と読み取れます。国鉄バスの場合、企業内番号の付番基準からも10年以上使用することは想定していなかったようです。 このバスも多くの場合同様、車番も消され、ツバメマークも方向幕も、勿論ライセンスプレートも取り外されています。後はスクラップになって、また別の製品に生まれ変わったことでしょう。 ![]() ② 宮崎営業所(?)にて’68年5月撮影 この程度の整備はどこの営業所でも行われていたようです。すぐ隣では271-7137が全輪ともホイールを取り外した状態で、ブレーキの点検でもしてたのでしょうか。全然別の営業所の話ですが、戦後しばらく住んでた町の営業所では、まだ舗装されていなかったのを幸いに敷地内でブレーキテストが行われているのを見た記憶があります。敷地内を試験走行しながら急ブレーキをかけ、どのタイアがロックしたかをみてた訳です。勿論今ではとても考えられないことですが、当時はみんなが知恵を出し合って、なんとか安全で快適な運行が出来るように努力していたのですね。 ![]() ③小松港バス乗り場にて’70年代前半の撮影か 後々写真を見るときに本当に大切なのはデータだと思います。この写真も映像としては残っているのですが、いつ頃撮影したのかはっきりしません。今のデジカメならいやでもデータが残るのですが。車番も全く読み取れず、ここに載せる写真としての価値はないかもしれませんが、大島での国鉄バスの活躍の姿をと数少ない写真から選んでみました。 ![]() ④534-4512 海田市営業所にて’64年3月26日撮影 国鉄バスの元気な姿を求めて中国地方へ行った時の一枚です。 幸運なことにまだ配車されたばかりで、ライセンスプレートも取得されてない状態です。国鉄バスの場合、遠隔地へは鉄路送で届けられたようですが、ここ海田市は国鉄屈指の大規模営業所だったので、このような情景は何度もなんども見られたのではないでしょうか。向こうにいるのは4507です。 ![]() ⑤342-6004 水口営業所にて’64年2月19日撮影 北海道や東北地方に比べるとそう気温は低くないはずなのですが、でも滋賀県とはいえここは内陸部 気温も予想以上に低くなることもあったのかもしれません。そのためかこのバスはマスク(?)をしています。過冷却を防止するためでしょうか。 ![]() ⑥271-5029 厚岸営業所にて’64年10月撮影 国鉄厚岸駅を下車して正面を海の方向に向かって100メートルほど進むと幹線道路に直角に交わり、そこを左に数十メートル程行くと左手に営業所があったように記憶しています。この営業所は規模が小さく、このとき写真に収めたのは3台でした。でも車庫は立派に屋根も付いて、後部を道路に向けて271型が2台停まっていました。因にライセンスプレートの番号は釧2 こ ・・25、26、27の続き番号でした。 ![]() △△少しだけ関係ある話です。 かなり過去のことになりますが、昭和30年代でした。わたしの疎開先の町にも国鉄バスの営業所があり、峠向こうの集落まで路線が伸びていました。そこへのバスは212とか112とかの小型車が割り当てられていたのですが、それらのバスにはハンドルに応じて方向が変わる補助ライトが付けられていました。前車輪とライトが同じ方向を向くようになっていました。これは営業所単位の工作だったと思います。今乗用車の一部には方向指示器と連動して斜め横を向いた固定ライトが点灯する車種もあるようですが、この点は50年前のバスの方が理屈に合っているように思います。 # by qqmemoir | 2006-04-24 13:27
① 631-4512 札幌市内にて’64年10月撮影
高速バスのブルー系統の塗色とは別のピンク系塗色の特急バスです。この塗色は余り長続きしなかったと思いますが、あちこちに少しづつ配車されていたようです。 札幌と小樽を結ぶ路線で、高速道路もまだ整備さていなかったころのことです。記憶には無いのですが、普通の道路ではなくバイパス道路のようなところを走っていたのかもしれません。当時の時刻表でみると札幌小樽間の所要時間は1時間20分となっています。また、何を間違えたか(?)篠山営業所にも同様の塗色の5型が1両だけ導入されていました。確か534-4503.かなり目立つ存在だったと記憶しています。 ![]() ②683-7022 伊那市内にて’63年3月撮影 シャシーメーカのマークはこの頃から車体には付けられなくなり、代わりに国鉄の動輪のマークが以前より少し大きくなって取り付けられるようになったのですが、これはまだその前の姿、EAGLEなのですね。 ![]() ③271-7121? 白河市内にて’67年2月撮影 正規の方向幕とは別に、窓には大X口行きと書かれた紙が貼付けられています。ボンネット型の導入がなくなる2年前のバスで、小さいながらもとてもすっきりした感じがします。私が通学していたときバスも利用していました。バスは駅舎とは平行に止まるようになっていたため、342型の大きなバスも、古い年式のはパワーステアリングが設備されていなかったこともあり、径のおおきなステアリングホイールでもってしても、動き始めや後退時のドライバーのハンドル操作が大変だった様子を覚えています。さすがその後導入されたコーチ型は、全てパワーステアリングが採用されこうした状況を見たことはありませんでした。 ![]() ④ 513-4017 大洲営業所にて’60年代中頃撮影 三菱のバスはエンジン室の換気のため中央最後部屋根に大きなダクトを設けていましたが、いすゞ車はこの写真のように最後部の窓を半分塞いで利用していました。ともにシンボルマークのような存在だったともいます。戦後コーチ型のバスが製造されるようになって2年目ぐらいの製品だと思われます。因に私は’52年型のコーチ型国鉄バスは確認できていません。それにしてもこのバス、ずいぶんやつれ果てたって感じがしますが、でもライセンスプレートも外されているようすもなくまだまだ現役?と思われます。また最前部側面の車番が緑の部分に白文字というのもあまり見かけなかったようです。 ![]() ⑤ 213-4687(4667?)ほか窪川営業所にて’60年代中頃撮影 この写真からは車番の確認は出来ないのですが、同日撮影したもう一枚の写真から辛うじて一台だけ車番の確認が出来ました。ボンネット部のルーバー状の換気孔が大きくなってすっきりしてきました。’53年までは幅が狭くて数が多い、’54年からは幅が広くて数が少なくなりました。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-23 13:09
①743-2501 晴海鉄道博覧会場にて撮影
’62年の晴海で開催された鉄道博覧会に夜行夜行の強行軍で出かけました。写真も沢山撮影したと思うのですが、特に関心の強かったのはこのバスと本ブログ13⑤の道路鉄道両用バス。鉄道道路両用バスは屋外、この高速バスは屋内に展示、当事者の意気込みの違いだったのでしょうか。その鉄道博もいつの間にか開催されなくなってしまいました。現在ならドリーム号でゆけるのですが、この当時は夜行の座席車だったに違いありません。 △△ 14日からのメガドリーム号の運転開始に先立って展示と試乗会があったようです。試乗はともかく展示だけはと思って予定していたのですが、所用のため断念しました。 でも去年東京から筑波往復利用したのであきらめました。時間の都合で往路は関東鉄道へのリース車でした。 先日東京に行く用事ができ、時間に余裕もあることからドリーム号のプレミアムシートをとおもって発売日の翌日購入しようとしたのですが、すでにオールリザーブトというわけで仕方なくメガドリームと変更しました。土曜日のせいだったのでしょうか、満席。東阪間のゆな長時間の利用は初めてだったのですが、想像していたよりずーっと快適、翌日も楽しく過ごせました。 ![]() ②743-2501 京都営業所にて’62年撮影 鉄道博覧会の終了とともに配車されたのが京都営業所、臨時便として翌年導入の何両かとともに、高雄の紅葉見物の旅客輸送に活躍していました。 ![]() ③ 271-7128 妻営業所にて’68年5月撮影 今まで何度か2桁目の7とか8の意味がよくわからなかったのですが、この頃の付番基準がボンネット型とコーチ型で別番号だったようです。一桁目でボンネット型とコーチ型が明確に区別できているのに、二桁目でも座席配置の違いに数字を一つ使用するのは無駄だったようにも思いますが、後ほどそうした無駄の無い付番基準に変更になりました。言い訳になりますが、この頃は付番基準の変更が何度かあったようで、十分にフォローできてないようでした。写真のバン型トラックもバスも共にライセンスプレートを取り外し、特にバスは前年の導入車、廃車ではなくどこか他府県の営業所に移籍される準備だったようです。後年は他企業との間で売却や購入があったようですが、’60年代にもそうしたやり取りがあったのでしょうか。 ![]() ④531-7002 油津(?)にて’68年5月撮影 確か都城から入ったと記憶しています。その途中にちょっとした峠があり、バスの運転手がフットブレーキを多用するので大丈夫なのかな、なんて余計な心配をしたのを覚えています。大切なことはすぐ忘れるのにつまらないことばかり覚えている、どういうことなのでしょうか。 ついでにもう一つ「あぶらつ(油津:九州)」のことをどこかで聞いて記憶していた「ゆのつ(温泉津:山陰)」と間違えたり、これもなぜか忘れず覚えています。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-22 15:37
①647-2902 宇都宮市内にて’60年代前半撮影
高速バスと同系統の塗色、だいぶあちらこちらでこのブルー系のバスを見かけるようになりましたが、これは’63、64年頃の水戸と宇都宮を結ぶバスです。トップドアー車なのに車掌さんらしき制服の女性を見ることが出来ます。エアコンも付いてエアサスの突き上げの無い丸い乗り心地、乗客の少ない時でも快適な旅ができなのではないでしょうか。 ![]() ②773-2901 宇都宮営業所にて’60年代前半撮影 この写真も①と同じ日に撮影したものです。急行便の運用にあわせて導入されたものか、あるいは観光用として導入されたものと思われます。①のバスは栃ナンバーで高速バスと同じブルー系統、②は茨ナンバーでピンクとグレーを基調とした比較的少ない塗色のバス、仲良く何両かづつ配置されたようです。 ![]() ③ 543-212 桜島にて’60年頃撮影 数少ない観光地を営業範囲にもつ鹿児島桜島で、定期観光として使用されていた天井に窓の付いたバス、西那須野にも同様のバスが配置されていましたが、まだエアコンはありません。この南国鹿児島での夏期の運用は好評だったのでしょうか、それともまだその頃はバスにエアコンをなんてことは、誰も考えていなかった時代だったかも知れません。この年度から標準塗色が3色になりました。それ以前のバスも順次3色に塗り替えられてゆきました。 ![]() ④ 534-3533 ほか篠山営業所にて’67年5月撮影 木造の車庫上部には7、8、9と番号が付けられています。 篠山営業所は最初敷地の角に道路に沿って木造の待合室、事務室などがあり、それに続いて鉄骨の建物がありました。事務室に近いところからシャシーの下部を点検の便を図るため2メートル近く掘り下げた点検用のデッキ(?)が2つ、その隣は平地のデッキ、その隣はタイアの接地面を持ち上げ水の流れを良くした洗車用デッキ、いずれも屋根付き、さらにその横には地下に埋め込まれた燃料タンク、その地上面は業務用の小型トラック(ニッサンジュニアー 725-4)の駐車場所になっていました。その後事務室、待合室、車庫とも数十メートル南に移動しました。この写真の車庫は移動後の姿です。番号は確認していませんが、数十メートル先の河原の堤防に沿って10台ほどの木造屋根付きの車庫がありました。その後道路の拡張などがあり、バスの駐車用スペースを挟んで道路側には待合室、奥には事務所と屋根付きの車庫が設けられました。写真は左より431-0015、431-0604、534-3533です。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-20 16:58
以前に撮りためた国鉄バスの写真を約1500枚ほど掲載しています。ブログの容量の関係でqqmemoir,qqmemoir2からqqmemoir11までと分割(2010.7.31.現在)公開していますので興味のある方はごらんください。なおこのうちから(一部これ以外のも含めて)60枚ほどを兵庫県三田市の中央公民館で展示することになりました。12月10日から16日まで。これは写真展用のポスターです。
今回の写真展でたくさんの人々に見てもらうことができ、どうもありがとうございました。 会場においた芳名帳には7日間で170名の方に名前をいただくことができました。遠くは一宮からもきていただいたようで感謝しています。毎日新聞と読売新聞にかなり大きく掲載され、特に読売新聞ではローカルの三田版のページではなく阪神版のページに掲載されたため市外からも見に来ていただきました。お名前をいただけなかった人も含めると250-300名ぐらいきていただいたようで、ほとんどの方が懐かしいと言われ、私の初期の目的は達せられたと喜んでいます。 ありがとうございました。 ![]() ① 513-1648 佐川駅前にて'63年頃撮影 最も大量に導入された513型、番号から見る限り61年度だけで少なくとも148台導入されています。高知から松山への特急便のほかに区間を限って運用する急行便もあったようです。そういえばJR鉄道便も在来線で特急便はたくさんあるようですが、急行便はかなり減ってしまったように思いますが。いまNHKで中国鉄道の旅が放送され毎回楽しみに拝見しています。人口が多いせいか路線が長いせいか数多くの客車を連結している場合が多いようです。貨物ではどこかの国ではワンマイルトレーンとかの長大な運用も行われているようですが、客車では珍しいのではないでしょうか。私の住んでる地方でもかっては昼間の殆どの時間を費やして目的地まで行くローカル列車や夜行の普通列車が走っていましたが、いまはすべて1、2時間で着いてしまうような便ばかり、そのかわり朝夕は3-5分間隔のフリークエントサービス、便利にはなりましたが面白みは少なくなりました。北陸線の西端部分には今も走っているのでしょうか、かってのブルートレインといわれた寝台電車を一部改造した電車がローカルサービスに付いていました。交直両用の機能が尊重されたようです。またF線ではその北端部分に直流電車の中間車を改造した先頭車(といっても2両編成)が活躍していましたが、すでに新しいワンマン運転のできる車両に置換され、評判のよかった(?)ゲテモノ電車はなくなってしまいました。 ![]() ②683-8024 下諏訪営業所にて'63年3月撮影 ここは民生ディーゼル車導入の地域、後ろ姿ばかりなのですがちょっと古めのバスから、比較的新しいのまで何台かのバスを見ることが出来ます。建物も既に木造ではなく鉄筋コンクリートになっていますが、地面は舗装されていません。またすぐ横には古材が無造作に放置されていたり、シートにくるまれたゴミのようなものが置かれていたり、やはり現在との違いを見ることが出来ます。 ![]() ③ 513-3412 十和田南駅前にて’63年10月撮影 本年度配置されたばかりの新造車、ここ十和田湖で半年近く稼働したあと、正規の配置先へ送られるのが普通でした。この400番台はエアコン付きのリーフ車、行き先は関西の都市部でしょうか。 この時十和田南の駅のすぐ近くの旅館で一泊したのですが、隣室のお客さんからキリタンポの注文がありましたのでどうぞといって私にも持ってきてくれました。 味はすっかり忘れて記憶にありませんが、この好意だけはしっかりと覚えています。40年以上も昔のことです。 ![]() ④413-1903 松山駅前にて’62、3年頃撮影 国鉄バスとしては最初のマイクロバスを使った特急便の運転が行われていました。 いまではどこでもほとんどワンマン運用ですがこの頃は比較的珍しかったようです。定員も少なく途中で乗り降りすることもほとんどないポイントツーポイントサービスの路線だったからできたのでしょうか。 ![]() ⑤ 413-2009 京都営業所にて’62、3年頃撮影 松山と高知をむすぶ特急便として413型を導入して好評だったのでしょうか、京都や岩泉にも同型のバスが配置されていました。 私の知る範囲では京都、岩泉ともこのバスを使って実際に営業に供されたことはありません。当時はこのバスを使って京都と小浜や、岩泉と盛岡を結ぶ特急便として検討されたものと思われます。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-20 09:44
①641-7901 撮影場所不明’68年頃撮影
ぜひ見ていただきたいと思っていたこの写真をアップするにあたって、メモすることの大切さを改めて痛感しています。 国鉄バス指折りの長距離路線だった名金線を体験するため、名古屋の安宿で一泊して名古屋駅へと向かったものでした。この路線確か名鉄バスと共同運行だったように思います。朝名古屋を出て金沢には夕刻に着いたように記憶しています。日本では許可されていないようですが、最近何度か中国へ行き知ったのですが、寝台バスが多数走っている、一目見て分かるのは横長の窓が上下2段構成になっていること。実際に利用した訳ではないので詳しくは分からないのですが、道路事情を考えるとあまり・・・・ではなさそう、中国の鉄道の通じていない農村部の人が、都会に出てくるときによく利用するのだそうです。長い路線になると50時間以上も走る路線もあるようです。これから見ると名金線もローカル路線だった?? ![]() ②514-4003 直方にて’60年代後半の撮影 このバスは俗にラッシュバスといわれていました。極近距離を大量輸送するためのもので、前2軸が特徴です。ここ直方以外にも福知山にも配属されていました。本シリーズ7 ⑤の同型式のバスを左前方から見たもので、すらり並んだ窓の様子からも通常とは異なりかなりの長大ボディであることがわかります。全長12米をクリアーし、後部にその旨表示して後続車などに注意を促していました。 ![]() ③747-9910 東京駅八重洲口にて’69年6月10日撮影 東名高速道路を走るバスの開通日です。国鉄の幹部職員のテープカットの瞬間です。 まだテープは左半分宙に舞っています。この記念すべき開通日の第一便(実際にはそれ以前に早朝から何便か発車しているはずです)に選ばれたのは、ピカピカに磨かれた747-9910でした。 ほかにも民間2社が同路線に参入しましたが、内1社は一時運用を取りやめたようで、現在のように人気が出るとは想像できなかったのでしょう。 ![]() ④747-9910 東京駅八重洲口にて’69年6月10日撮影 上の①の直前の様子です。 ![]() ⑤ 東京駅八重洲口にて’69年6月10日撮影 左の方には8ミリカメラで撮影している人がいます。いまなら勿論ヴィデオカメラ、当然アマチュア用とはいえハイビジョンカメラも廉価にて手に入れることができ、画像の質は勿論わずか3分程度しか撮影できなかったフィルムの時代とは隔世の感じですね。この人もきっと早くバスがフレームアウトしないかなとハラハラしてたのではないでしょうか。後ろのバスは741か744型です。去年ハイビジョンヴィデオカメラを手に入れました。撮影はいいのですが、後の編集が大変、パソコンまで新しくする羽目になってしまいました。奇麗な映像を処理しようとすると大変なのですね。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-19 14:38
①643-6081 光市内にて’64年4月撮影
撮影地がはっきり記録に無いのですが、多分光駅前だと思われます。撮影地と撮影時期は非常に大切だと今になって痛感しています。デジタルカメラだと撮影地はともかく撮影時期からシャッター、絞り全部記録されますが、フィルムカメラでは紙にメモするか頭に記憶する以外に方法がありません。 このバス自体は関西ではどこでも見かけた標準型です。翌年からはシャーシメーカのマークはなくなったのですが、この年はまだ一番いい場所を陣取っています。おかげで国鉄の動輪のマークは苦し紛れに取り付けられているという感じです。 ![]() ② 534-3503 光駅前にて’73年7月撮影 場所的には上の①のすぐ東隣と考えられますがほぼ10年経ってからの写真です。10年一昔とは言いますが周りの感じは諺程には変わっていないように思えます。後ろに写っているバスは辛うじて534-5519と読み取れます。いずれも新しいブルー系統に塗色されこの点では諺通りなのでしょうか。 ![]() ③ 773-1501 白河駅にて’61年12月撮影 このバスは国鉄高速バスの第一号車です。ドアーも乗用車並みの前開きで側面の窓も小さ嵌め殺しになり、車体も前部の形状もそうですが、後部の形状はさらにぐーっと絞り込んだストリームライン、塗色も白とピンクの塗分、国鉄バスの標準色がグリーン系統の3色になって2年程しかたってないのにこの塗色、やはり一般道路を走るバスとは一線を画すという意味もあったかもしれないし、また高速バスにはどのような塗色が適しているか、いろいろと検討されていた頃と思われます。方向幕から見られる通り棚倉営業所に配置されてからは営業車として組み入れられていました。エンジンがあるいはトランスミッションがどうとか、部外者の私には全く分かりませんでした。高速バスの2号車は鉄道博覧会にも展示されていたのですが、この1号車が展示されたかどうか不明です。現在もどこかの博物館にでも保管されているといいのですが。 ![]() ④ 381-6733 美瑛営業所にて’64年10月撮影 今でこそすっかり観光地として有名になった美瑛、この頃は観光地としての印象はあまりなかったように思います。広々とした敷地に停められ低い角度からの太陽を受け私の気に入った写真の一枚です。 ![]() ⑤534-4005 十和田南営業所にて’64年10月撮影 とくに新緑の頃と紅葉の頃に多くの観光客が集まる十和田湖周辺、こうした波動輸送に対処するため青森営業所と十和田南営業所には毎年紅葉のシーズンに間に合うように数多く新製バスが、降雪の時期まで暫定的に配置されていました。これもそのうちの一台と思われます。 ![]() ⑥573-8501 宇都宮営業所にて’66年4月撮影 営業を終えたバスで社番も消されているのですが、辛うじて読み取れます。最終的にはどうなるのか、完全にスクラップになるのか中古車として他の企業が再使用するのか、いろいろの場合があったとおもいますが、一般的にはこのように国鉄の番号も消しマークも取り外されていました。方向指示器もこの年までは照明の入った矢印が水平に飛び出す腕木型式で、照明の点滅するウインカー式になるのは59年度からです。このバスも番号からも分かる通りエアサス車なのですが、国鉄バスがエアサス車を導入したのはわたしの知る範囲では1957年で、後にアップしますが、民生ディーゼルのバスで新居町に配置されていました。58年度になるとあちこちに配置、59年になるとボンネット型の導入が取りやめられたこともあり新規導入車の大半はエアサス車だったようです。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-19 10:05
① 山川駅近郊にて’68年5月撮影
側面が少ししか写ってないので分かりにくいのですが、よーく見ると3色塗り分けの中央の金茶色部分が、車体中央付近で段差がついている、このグリーン系統の塗り分けとしては、末期の塗色でずいぶん明るく軽快な感じを受けた記憶があります。本来なら鹿児島のライセンスプレートのはず、この写真のバスは大分ナンバー、宮崎県を通り越しての借入車の用です。 ![]() ②534-9513 篠山町内にて’64年撮影 このバスは配置されたときは543-211という番号、途中で年号表示の加わった7桁構成の新付番基準によりこの番号に変更になり、 またこの年度から塗色に金茶色の部分が加わり3色になりました。57年度には新居町に、58年度には海田市その他にもアエサス車が配置されましたが、篠山営業所ではこのバスが最初のエアサスのバスでした。 ![]() ③683-1502 杖突峠にて’60年代前半撮影 茅野から伊奈市へ抜ける途中、峠の頂上で何分かの休憩がありました。午前中のかなり早い時間で、とても景色がよかったように記憶しています。この写真からみるとまだ道路も完全には舗装されていないようです。 後日このルートを車で通りましたが、道の脇には道祖神があちこちに置かれており沢山写真におさめてきた記憶があります。 ![]() ④743-3804 高雄にて’63年11月撮影 京都駅前から紅葉のシーズンになると、定期便に加えて数多くの臨時便が運転されました。 一年後の名神高速道路の開通に備えて配置された何台かの高速バスもこの一翼を担っていました。たまたまこういうバスに乗れた人はラッキーというべきでしょうね。この当時はエアコンつきのエアサス車はx900ではなくx800台だったようです。この頃だったでしょうか、結構頻繁に付番基準が変更になっていました。 ![]() ⑤372-8049 いつもLPLのステンレスタンクとスパイラルリールを使って自家現像していましたが、現像処理が悪かったのでしょう、ずいぶんとコントラストの強い画面になってしまいました。 反面ボンネットの上あたり光線の具合によって味がでている?? 車体後部のゆとりはもう少し欲しい所ですが、ネガがこれでは致し方ありません。ファインダーの覗き方が十分でなかったようです。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-18 17:48
① 643-2901 山口営業所にて’64年3月撮影
関門トンネルを通って山口と福岡を結ぶ関門急行線の2代目として登場したこのバス、塗色もグレーと白とピンクの塗り分け、冷房も完備されかなり快適な旅が約束されたのではないでしょうか。 別途アップしますがこの路線の初代は543-9xx型 普通の543型より多少全長が長くなっていました。 ![]() ② 534-1501 篠山町内(当時)にて’62年1月撮影 勿論現在程ではないにしても、少しづつ団体客の需要がでてきました。 このバスはこの時点で篠山営業所唯一のトップドアー車でした。団体客対応のトップドアー車でさえまだ冷房は装着されていません。その後高速道路用のバスの暫定配置を含め、何台かのトップドアー車が配置されました。 ![]() ③ 213-7771 川本営業所にて’64年3月撮影 現在のようにライセンスプレートに希望ナンバー制度なんか無い当時、なぜか国鉄バスは府県単位で連続番号が付与されている場合が多く、ファンにはかなり管理し易かったように思います。どこにでも見られた21x型ですが、翌年以降は導入されなくなりました。 ![]() ④112-5009(?) 大野営業所にて’60年代前半撮影 大野営業所がいつ頃廃止になったのかはっきりしないのですが、廃止時期としてはかなり早かったと思われます。営業所の規模としても小さくその後訪問した時は、跡地は空き地として放置されていました。 112型は国鉄バスの中では、マイクロバスの特急用を除けば一番の小型車、21x型程ではないのですがあちこちで見かけることができました。 ![]() ⑤213-2500 観音寺営業所にて’60年代後半撮影 ’52年導入のバス、何年かの稼働を終えた後の姿です。更に年度の古いバスも何台かアルバムには収められているのですが、このように車番としてはっきり年度の入っているのはあまりありません。車番基準が変更になった時期と廃車の時期が重なったようです。このバス使用できる部品はこれから取り外して再利用したのでしょうか、すでにライトやミラーなども見えなくなっています。 ツバメマークや社番などは取り外したり消されて放置されている場合が多かったのですが、ここではそのまま残されていました。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-18 14:06
①673-7067 白河駅前にて’61年頃撮影 東北線の白河駅をでると右手に国鉄バスののりばがあり、左手には確か福島県南交通の乗り場があったように記憶しています。 国鉄バスは、白河駅から磐城棚倉まで、一般車両の通行が禁止されてた国鉄バス専用道路を通って営業していました。 写真でみると普通の道路と同様に舗装されてはいますが、路肩は結構いい加減でバス同士の行き違いは出来ません。 現在はどうなっているのでしょうね。 ![]() ②311-44 檜山営業所にて’56年頃撮影 檜山営業所の下部組織として福知山派出所がありましたが、その後逆転して福知山営業所の下部組織となってしまいました。 このバスはいすゞのボンネット型としては最も大きいタイプで、座席も両サイドのみの近距離大量輸送用です。 横の建物は営業所で、他の営業所同様階下に待合室と売劵窓口、小荷物取扱窓口など、2階は職員の事務所という典型的なタイプです。 2階の窓のそばには丸いトランペット型拡声器が取り付けられています。こちらを向いている女性は勿論、手前に立ち尽くす子供達もひょっとしたらおばあさんになっているかもしれません。 ![]() ③673-4020 西那須野営業所にて’60年頃撮影 コーチ型としては多分一番早期に導入されたと思われる日野のバスです。 まだ52年度導入のコーチ型の国鉄バスは確認していません。 このバスは方向幕、国鉄の動輪マーク、シャーシーメーカーのマーク、急行等の表示器、ライセンスプレート の全てが正面中央に配置されかなり賑やか、後部に見える円筒状の大きな建造物は何でしょうか、蒸気機関車のための給水塔かもしれません。 ![]() ④673-9509 西那須野営業所にて’60年頃撮影 上の③と同じときに撮影したものです。西那須野は営業区域内に観光地が含まれていたため、他の営業所に比べて車両面では恵まれていたのではないでしょうか。このバスもよーく見ると天井にいくつかの透明ガラスがはめ込まれ、車内を明るくしたり観光地ムードを高めるのに一役買っていたようです。でもまだエアコンは採用されていない時だったので夏場の車内は快適だったのでしょうか。鹿児島にも同様の天井に窓の付いたバスが配置されていました。 ![]() ⑤043-2001 晴海鉄道博会場にて’62年撮影 この博覧会を見るために行きも帰りも夜行列車、今のように快適な夜行バスなんか考えられない時だったのでよく我慢して出かけたと思います。 これは本シリーズ国鉄バスの写真2の⑤でご紹介したバスですが、ここでは前後に2軸のボギー台車に載せられて、このバスの特徴を最も発揮できる形で展示されていました。こうしたバスがうまく活用できればローカル線の廃止状況も少しは変わっていたかもしれません。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-17 16:49
①534-6014 国分支所近くで’68年5月撮影
博多まで夜行列車で行き、さらに翌日の夜行列車で鹿児島へ、帰りも全く逆コース夜行列車の4連泊の強行軍でした。特急列車は勿論、多分急行列車も利用しなかったと思います。 このバス自体は特に関西方面では最も普通に使用されていたものです。方向幕が大小2つに分かれ前照灯も4灯化ています。 背後の建物に日本通運のマーク、最近は余りこのマーク見かけないように思いますが。 ![]() ②534-1534ほか 鹿児島営業所にて’68年5月撮影 この場合がそうだという訳ではないのですが、夜行列車で目的地に着き、眠い眼をこすりこすり見上げるとすぐ前に沢山並んだ国鉄バス、眠気もどこへやら、夢中になって写真を撮りまくったのがつい最近のように思えてなりません。典型的だったのがやはり広島、海田市、札幌だったでしょうか。 ![]() ③513-1608 京都営業所にて’63年11月撮影 紅葉のシーズンになると京都駅から周山方面へは、定期便のほかこのような臨時便が数多く運転されていました。この513型はほぼ全国的に導入された最もポピュラーなバスで、多い年には一年間に150台以上導入されていました。この年は名神高速道路の路線開通を翌年に控え、ブルーカラーの高速道路用のバスも臨時便として運用されていました。 ![]() ④513-0014 水口営業所にて’64年2月15日撮影 この頃になるとリーフよりエアサスのバスの方が導入数としては多かったように思いますが、これは少数派のリーフ車です。国道1号線を営業範囲としていた水口営業所、数的には少なかったのですがバンパーの両端に黒と黄色のテープを巻き付けている車がいました。現在と比べるとどのような状況だったのか分かりませんが、高速道路が開通する前のことで、国道1号線の交通状況もかなり混雑していたことへの対応だと思われます。水口営業所は国道1号線沿いの山を一部切り崩したような場所にあり、すぐ裏は現在は公園になっています。 その公園へののぼり口の途中に、国鉄バス創設者「菅健次郎氏の碑」が建てられています。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-17 14:55
① 373-8119 陸前高田にて'63年9月撮影
大きなボンネット、視界の悪さを少しでも改善しようと、両サイドや前方真下を確認するための凸面鏡が沢山付けられています。 少し大きな駅の近くには日通の事務所がありました。 ここ陸前高田も例外ではありません。私が知る範囲では国鉄バスでは58年型がボンネット型の最終導入年度で、それ以降は全てコーチ型の導入です。 ![]() ② 513-7116(8?) 葛巻にて’63年9月撮影 葛巻には国鉄バスの事業所があったのですが、それが自動車営業所だったのか営業所の下部組織の派出所だったのか記憶にありません。 ライセンスプレートは2台ともオレンジ色に黒文字の小型サイズの旧式のものが付けられています。 同時期に撮影した近くの岩泉や北福岡営業所では、緑地に白文字の新式ばかりで旧式のプレートはほとんど確認できなかったのに、ここ葛巻ではほとんど旧式、ちょうど過渡期だったのでしょうね。 ![]() ③ 213-7754 久慈駅前にて’63年9月撮影 この213型は212型に比べてかなり少数派なのですが、右から4桁目を導入年度を表すようになる前の車には、一連番号が付けられてたようです。従ってこのバスは213型として754台目というわけではなく、212型や211型も含め21x型としての一連番号の可能性が強い気がします。 ![]() ④ 673-2518 沼宮内にて’63年9月撮影 東北地方と北海道地方に重点的に配置されていた日野の車です。この地方では21x型と並んでよく見られた型です。エアコンはまだ導入されていませんがエアサスは大半を占めていたようで、特に悪路を走る路線では好評だったようです。 ![]() ⑤ 倉敷市内にて’50年代後半撮影 ’54年か’55年に導入された型、方向幕の位置が低い位置に取り付けられています。この方向幕のサイズもLとSがありました、必ずしも製造年度によってサイズが変わったようではないようです。またちょっとだけ見えますが、後上部には大きなラジェーター用空気取り入れ口があるのが特徴でしたが、この空気取り入れ口も’57年度にはなくなりました。ダイハツミゼットやマツダの三輪トラック、荷台の大きな全面チェーンケースの自転車などなど、どれも博物館に設置しても十分価値があるものばかりです。 ダイハツミゼットは池田市の工場でも製作されていたようで、国鉄川西池田駅の引き込み線では、貨物ホームまで運ばれてきたミゼットを3人の作業員が一台づつ抱えて貨車に載せているのを何度か見たことがあります。 ![]() ⑥ 643-7127 倉敷駅前にて’63年7月撮影 後部上端にぽっかりと開いた空気取り込み口はこの年度には姿を消して上部側面の小さな取り込み口から屋根に沿うようにエンジン室までつながっていました。643型は関西ではどこでも見られた大型車。まだ2色の塗分けですが翌年度からグリーンとベージュに金茶色が加わった3色が標準色となり、それ以前に製造された車も順次3色塗装に変わってゆきました。 ![]() ⑦ 643-0549 広島駅前にて’61年2月頃撮影 うろ覚えなのですが、昭和20年代の初め省営バスと言ってた頃はグレーとブルー系統の塗り分けだったようです。次いでチョコレート色とベージュの塗り分け、グリーンとベージュの塗り分け、グリーンとベージュに加えて金茶色の3色塗り分け、そしてブルーと白、グレーを主体とした3色標準色、この間少数ではありましたがピンクとグレーの塗り分け(14① 山口ほか)、濃いピンクと白とグレーの塗り分け(25① 篠山ほか)、白とグレーとダークグリーンの塗り分け( 札幌)なども存在しました。 ここに掲げる写真のバスもかなり小数派、ほとんど無塗装、というのも軽合金バス、以前ここを訪れた時は窓に自慢げに「軽合金バス」の表示がありましたが、いつの間にかその表示はなくなりこの姿です。 ![]() ⑧ 112-5018 久慈市内にて’63年9月撮影 現在この写真のように程度のいいボンネットバスがあれば、ボンネットバスボンネットバスといって珍重されるのでしょうが、この頃はこれが普通でした。方向幕のオフサイズもご愛嬌、文字そのものも手書き(?)現在の電光表示式よりも味があって優雅に見えませんか。でも営業所に習字の得意な人がいなかったら、ちょっと惨めな方向幕しか出来ないのでは?? ![]() ⑨ 213-8799 久慈駅前にて’63年9月撮影 ボンネット型最終年度の導入車です。’59年以降の導入は確認できていません。後輪の後ろに広告板ホルダーが取り付けられていました。 ライトの横に小さなメッキの飾りが付けられたり、左右のライトの間の3本のメッキグリルにフォグランプが埋め込まれたり、年度がかわるわるたびに小さな変化が見られました。 ![]() ⑩ 312-8056 久慈駅にて’63年9月撮影 上欄同様最終年度の312型、広告ホルダーが取り付けられていますが、私のアルバムにはホルダーだけで肝心の広告板が取り付けられているのは見当たりません。現在でも東京など大都会では電車の車内広告も所狭しとばかりに掲示されていますが、地方に行くとホルダーは準備されていても実際には何もホルダーに挟まれてないのもよく見かけます。 ![]() △△ 全く関係ないのですが、先日JALに乗りました。もうとっくの昔になくなっているとばかり思っていた丸い鶴のマークの機体に乗ることになりました。 那覇にはこうした丸い鶴のマークの機体が何機か駐機していました。古い機体はまだ丸い鶴なのですね、全機スイカ(skyではありません水瓜です)マークになってるとばかり思っていました。 # by qqmemoir | 2006-04-16 11:32
① 643、513 ほか 十和田南営業所にて'63年10月撮影
手前から 513-3634、513-3633、643-3509 が確認できます。 いずれも本年度導入の車両、十和田湖の秋の波動輸送に活躍した後、このほとんどは日本各地の営業所に正式に配置されたはずです。バックには巨大なテレビアンテナがどことなく時代を感じさせます。この十和田営業所も既に時刻表からは姿を消しました。 ![]() ② 373-3038 長野原営業所にて'63年3月撮影 よーく見ると右側最後部に枠でかこって小さく35-4 橋自工とあり整備した場所と年月が表示されています。神奈川県の橋本や京都などに自動車工場が設置されていました。 そういえば鉄道車両にも同様の表示があり、同じ企業内ということで表示の統一がはかられていたようです。後上部には中央に3つと両端にひとつづつのオレンジ色の装飾用(?)ライトが付けられていましたが、まもなくこのようなライト両端を除いて付けられなくなりました。 ![]() ③ 583-3001 下諏訪営業所にて’63年3月撮影 エンジンを最後部に搭載したコーチタイプとしては最も初期に導入されたバスと思われます。 終戦後わずか8年でこのような車両が生産されていました。 国鉄バスとしては記憶に無いのですが、民間バス会社ではエンジンを運転席のすぐよこに配置したコーチ型をあちこちで見かけました。 この車も撮影した時点で既に10年間稼働していますので間もなく廃車されたものと思われます。 ![]() ④313-8041 十和田南営業所にて’63年10月撮影 右側のバスはまずい写真ですっかり白飛びしてしまっていますが、車両番号はなんとか読み取れます。 xx3型は2人がけのシートがずらりと並んでいるタイプ、なのにx0xxでリーフサスペンション、この年度コーチ型では2、3の営業所でエアサスの導入が始まっていました。 左のトラックは6輪全輪駆動、米軍からの払い下げの車両でしょうか、終戦直後にこうしたトラックに鉄パイプとテント地で屋根と側壁をこしらえて、バスの代わりに使用し乗客を運んでいたのを記憶しています。側壁には小さな窓まで準備し昇降用のはしごを最後部に取り付けて・・・ 私の小学校2、3年生の頃の話です。 頭の中にはぼんやりとした記憶があるのですが、どなたかこの頃の写真をアップしていただけないでしょうかね。 ![]() ⑤ 312-8050 大湊営業所にて’63年10月撮影 後ろに写っているのは671-0014 ここだけではなくあちこちでよく見かけられた木造の車庫ですが、ここのは一段と迫力があるように思います。細い柱に波打つ屋根、木切れを素人細工で貼付けたような屋根周りの側壁、一部草の茂った敷地、そこに放置されたエンジン、比較的新しいバスが無造作に置かれているだけに一段と印象的。このボンネット型のバスは いすゞだけでなく他社も含めて国鉄が導入した最後の年度のバスと思われます。 ![]() ⑥ 全く関係のない話なのですが、昨日まで3泊4日で宮古島へドライブ旅行に行ってきました。駅前で借りた車はダイハツのBoon、オドメーターは1700キロ、いつも乗り付けてる自分の車は昭和時代のLegend、これから比べれば新車でしっかりしたとても乗り易い車でした。 着いた日明るいうちに散歩に出かけたのですが、帰路すっかり暗くなってホテルへの道がわからなくなりタクシーを利用 初乗り390円、気の毒なような値段でした。 3日目島尻港から12トンの小さな船に乗って大神島へ、そこは住人35人の小さな島、でも港の右手にはよく整備された大きなコミュニティー広場、さらに島で一番高いところにある遠望台しっかりと手入れされた階段、最後の少しは暑さのせいもありちょっときつい、でも遠望台から見る海の色と周りの景色はすばらしいものでした。ただこの、島住人は少ないのですが、立派な小学校と中学校が同一の敷地内に設けられています。遠望台から降りてくる時、ちらっと見えたのですが、先生が手を降り振り何か黒板に書いているところ、でもあとで港で住人の一人に聞いたところ生徒は二人だそうで、しかも二人とも移住者ということでした。ただし先生は9人だそうです。またこの島には自動車というものがありません。周遊道路(一部のみ完成)は幅員こそ車一台がやっとという感じですが、立派に舗装されていました。道路標識は全く見当たりません。必要ないのです。でも港には3台程バイクが止まっていました。よく見るとナンバーは付いていません。島の中は道路ではないのでしょうか。 あと何年かすると余程のてこ入れをしない限り、無人島化するのが眼に見えているようでした。本島や沖縄では大変荒れた天候だったようですが、ここ宮古島は快晴、すっかり日焼けして楽しい4日間を過ごしてきました。 # by qqmemoir | 2006-04-15 11:48
① 671-7085 佐原にて’64年3月15日撮影
房総半島から茨城県方面を一巡りした時だったと思います。佐原の駅舎の片隅でしょうか。多くの米俵が山積されています。 さらに遠くには国鉄バスも停まっています。この翌年まではバスの前部中央にやや小さめの国鉄のシンボル動輪のマークとともにバスのシャーシー製造メーカーのマークも付けられていました。この車の場合いわゆるフロントグリルに相当する3本の飾りやライセンスプレートも取り付けられています。そのせいでしょうかいくつものマークが重なるように付けられて何ともみっともない感じ、多分エンジンが床下に設置されていた都合でライセンスプレートがバンパーからはなれて上部に取り付けられていたのも遠因です。 その後メーカーのマークが付かなくなるとともに動輪のマークがかなり大きくなりました。 ![]() ② 373-4073 土浦営業所にて’64年3月15日撮影 導入年度と撮影年からみて、本来の役目を無事果たし終えた後の姿だと思います。 補修用の部品取り用として置かれていたのかもしれません。 そういえば、昭和30年代はそんなに大きな規模の営業所でなくても車庫の片隅に旋盤が配置されていたり、エンジンを取り外したり、かなりの重整備が営業所単位で行われていました。 今ではこういう風景はほとんど見ることが出来ないようです。後日写真をアップするつもりですが、青森県の大湊ではちょうど私が訪ねたとき、営業所の敷地の隅に雨ざらしでエンジン単体が放置されていたこともありました。 ![]() ③ 431-2039 成田駅前 ’60年代終わり頃か? 今でこそ立派な国際空港が出来た成田、その成田の50年近く前の国鉄の玄関口の姿です。勿論成田山を意識した造りです。 ![]() ④ 773-2901 八日市場営業所にて’64年3月15日撮影 八日市場営業所でも貸し切り業務が行われていたようで、この車はエアコン付きのエアサス車、塗色の模様からピンクとグレーと白の三色、この塗色は余り長続きしなかったのですが、結構あちこちの営業所で見ることが出来ました。 水に写ったうしろ姿、時代とはいえ何とも野暮ったい感じ、でもグリーンと金茶色とベージュの標準色が多かったときこのピンク系の塗装はかなり目立ったのでは無いでしょうか。 ![]() ○ バスとは全く関係ないことですが、終戦直前の3月私は疎開、多数の子供が疎開してきたため1学年5組あった私の学校 1組に70名、二人用の机を3人で使用、教科書も新聞紙のような大きな紙に小さな字で印刷され家庭に持って帰って裁断して綴じて・・・ こんな教科書でした。勿論色刷りなんてことは考えられません。 でも終戦後2、3年で多くの疎開者が都会へと引き揚げたため、その学校今では2クラスでも多すぎるとか。 # by qqmemoir | 2006-04-09 16:07
① 北丹鉄道 河守駅構内 にて ’55年頃撮影
’60年代は国鉄バスの営業所の所在地を確かめるのも結構大変だったように記憶しています。 時刻表には国鉄バスの時刻が集中して掲載されていましたが、それを参考に発着する便数の多いところをめがけて直行する。すぐ近くに営業所があればラッキー、中には営業区間では無いところにあったり、どこにあるのか全くわからなかったり、時間や費用をだいぶ無駄にしました。 国鉄バスとは関係がないのですが、福知山から河守まで北丹鉄道が運行されていました。 私が乗車した時はディーゼル機関車に曳かれた木造の客車で、窓枠に手を当てていると列車が発車するたびに手に異常な力を感じました。 窓枠の直角が変化していたのです。こうしてちょっと古めの客車で約1時間で終点の河守、ここの構内での撮影です。少し雪が残っているようで、ここまで来ると山陰地方の気象条件。この北丹鉄道もずーっと昔に廃止されてしまいました。 ![]() ② 青森自動車営業所 ’63年9月撮影 青森は十和田南と並んで毎年夏頃になると|沢山の新製車両が暫定配置されていました。 そして何ヶ月か稼働して観光客が少なくなるとそれぞれの配置先へと向かうのです。 ここ青森営業所は駅のすぐ近く、でもまだ敷地内の未舗装です。このバスも後部の方向幕は団体の表示、一般利用者以外に団体客の利用が多かったようです。 ![]() ③ 343-3123 京都営業所にて’50年代終わり頃の撮影 番号からわかる通り’53年式の三菱のバス。 それ以前の同形式の車両は私の写真には見当たりません。いすゞ製ではそれ以前の車両もアルバムに沢山あるのですが。 内部は乗降口から前に2人がけシートが一つ、後ろへは最後部まで2人がけシートが並ぶxx3型、xx2型に比べると少数派?? この車庫は京都駅から少し離れた2代目 でもすぐ後ろには集合住宅も見られます。 ![]() ④ 342-157ほか 篠山口駅前にて’55年頃 これは’54年型もう一台のバスは212-494 で’53年型です。 翌’55年になるとここ篠山営業所にも2台のコーチ型が配車されました。朝8時頃になると列車から降り5キロ程離れた学校へ通う高校生が利用するため、ライバル(?)の神姫バスとともに計10両近くのバスがこの狭い駅前に集まっていました。駅を出て右手が国鉄バス、左手が神姫バスとわかれて手前のバスから順に発車していました。 道路も十分に舗装されていなかったため、最初に出るバスはいいのですが2台目以降に出るバスの利用者は先行車の巻き上げる砂塵を十分に味わうことになっていました。 エアコンなんて想像も付かなかった時のことです。 ちょっとした田舎の駅には材木を積み込む引き込み線が準備されていたり、製材所がすぐ近くにあったり、駅舎の暖房用のストーブでしょうか二本の煙突からは煙りが立ち昇り、懐かしい風情を感じます。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-09 09:43
① 528-6014 新居町営業所にて’67頃撮影
国鉄バスの場合、営業範囲が全国的にまたがっている関係か地域により導入する車両メーカーが分けられていました。 ここ新居町は比較的数少ない民生ディーゼルの車両が採用されています。 このバスは最も一般的なもので部外者には特に特徴はみられません。 ![]() ② 528-6008 新居町営業所にて’67年頃撮影 これも①と同じときに撮影したものですが、窓の様子から見て少し全長が伸びている528伸びサイズ 写真から見る限りホイルベースも少し長くなっておりそれに伴って全長もほんの少し延長されている? ![]() ③ 644-4915 名古屋駅前にて’64年10月 高速道路用としては’61年の試作車以後毎年何両かづつ製作し隣接の営業所に仮配置し営業開始の日を待っていました。 開通日やその直後は予想したより利用者が多かったのか高速道路用の7xx型に加えて一般用の6xx型も動員されていました。 ![]() ④ 744-4908 名古屋駅にて’64年10月5日 大急ぎで名古屋駅に駆けつけたのですが、残念ながらテープカットの瞬間には間に合いませんでした。 多分何便か前に国鉄の幹部を交えてのテープカットが行われたと思われます。くす玉の割れた残りからテープがなびき、バスには日本の国旗が飾られています。このバス自体は開業に供えて兵庫県の篠山営業所に仮配置されて時々貸し切り業務にもついていた車です。 ![]() ⑤ 514-5001 福知山駅前にて’67年5月撮影 少し前から筑波と東京を結ぶ路線にご存知メガライナーという非常に大きなバスが導入されました。実は私も去年の秋、何の用事もないのにわざわざメガライナーの乗車体験のためだけに出かけました。 この写真はそうした比較的長距離を走る路線用ではなく、極近距離の大量輸送用として開発された2代目のもので、同形の車両が前年度にもここ福知山には配置されました。このころ前2軸のバスは非常に珍しくファンにとっては垂涎の的? 私の知る範囲ではここ福知山以外にも九州の直方営業所にも配置されました。 ちなみにこのバスの定員は96名でメガライナーより10名程多い、勿論立ち席も含めての定員です。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-08 15:03
① 271-7116 鹿児島桜島にて ’68年5月撮影
数多くあった国鉄バス営業所の中で、著名な観光地を営業地域にしているところはあまり多くはありませんでした。 その観光地桜島の一部をテリトリーとしていた鹿児島営業所の車で、前部のグリルも通風孔が大きいのに左右ライトの間にあるべきはずの3本のメッキグリルが見当たらない。その場所にはフォグランプのようなライトが装備されている、ちょっと不思議な車です。方向幕の布もオフサイズです。 ![]() ②743-3804 高雄にて’63年11月撮影 名神高速道路の開通を目前に控え、国鉄が準備した三菱製の高速バス。61年式の773,62年式の743、62年式ではほかに713もどこかに配置されたそうですが、私は確認することができませんでした。この3804は開通までのしばらくの期間京都営業所に配置されて高雄の紅葉シーズンには臨時便あるいは増発便として利用されていました。また兵庫県の篠山営業所にも同型式2両が仮配置され貸し切りバスとしても利用されていました。 この写真は高雄から京都駅方面の営業についているところです。 ![]() ③ 743-3804、743-2501 京都営業所にて’63年11月撮影。 京都営業所の中に並んだ先輩と後輩、1年前の2501と新しい3804、先輩の方は付番基準からみると非冷房のエアサス車、でもこのころ付番基準が何度か変更になっており部外者がフォローするのが大変なとき、勿論冷房装備のエアサス車かもしれません。またライセンスプレートも 京2あ2848 から 京2い50-24と新系列のプレートに付け変えられています。 ![]() ④ 342-8027 水口営業所にて ’64年2月15日撮影 近畿地方には広島や札幌のように大規模な営業所は無かったのですが、ここ水口は近畿地方では京都とならんで大きい方でした。 この写真は国鉄が導入したボンネット型としては最後の年度の大型車でした。コーチ型にはこの年度には既にエアサス車が本格的に導入されていますが、ボンネット型は勿論リーフ。まだまだ舗装道路が少なかった当時、少客時にはこの車結構大変だったのではないでしょうか。少し前まで隆盛を極めていたが現在時刻表からもすっかり姿を消した水口、先日どうなっているのか訪ねてみました。事務所の建物も車庫や洗車設備もそのまま放置されていますが、広い敷地の中に止まっているのはJRバスではなくて一般の乗用車が数十台、事務所もブラインドを降ろして完全な無人状態、フェンスには「観光バスのご用命はJRバスへ」 そして今津営業所の電話番号、何かとても空しい感じがしました。その水口営業所の裏手の丘の中腹に国鉄バス創設者「菅健次郎」氏の碑が以前から建てられています、今のこの営業所の姿をみて氏は何を思うのでしょうか。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-07 17:45
① 211-7 水口にて ’55年頃撮影
はっきりした記憶は無いのですが、当時国鉄バスの営業所は同じ建物内の階下では切符の発売、小荷物の授受と待合所、二階には事務所が配置されている場合がよくありました。 ここ水口でも建物の使い分けがこのようにされていたように思います。 このバスは役目を終えた後の姿なのですが、写真から見ると窓枠も木製で戦後いすゞが製造を始めた極初期の製品だと思われます。 その後営業所は国道沿いの広い場所に移転しました。 ![]() ② 671-8009 千倉駅前 ’60年撮影 1959年製のバスから塗色が2色から3色に徐々に変わってゆきました。 この写真は2色の最後の年式と思われます。 ベージュとグリーンの塗り分け、これ以前はグリーンの部分がチョコレート色、ここまでは記憶がはっきりしていますが、それ以前は余りはっきりしないのですが、確かグレーとライトブルーの組み合わせだったように思います。多分この頃は国鉄バスではなく省営バスと言ってた時代。 ![]() ③ 鹿児島駅前 ’55年頃撮影 駅前の舗装も無く自転車が幅を利かせていたころです。 今のように自家用車が普及してなかったのでバス事業者も元気があったように思います。 新幹線も部分開業し後少しで東京まで新幹線で行けるようになる鹿児島、50年の年月を感じます。 ![]() ④ 岩国営業所 ’50代後半撮影 342型と212型が2台 中央の212型は私のアルバムにも余り見当たらない予備タイアをシャシー下部でなく最後部に取り付けたバスです。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-06 15:11
# by qqmemoir | 2006-04-05 15:47
① 517−5026 札幌営業所 ’64年10月撮影
ちょうどオリンピック東京大会が開催されているとき、国鉄バスの写真を求めて北海道を一周しました。 忘れられないのが、広尾から様似へのバスの中で聴いた日本のマラソン選手がなくなったというニュースでした。 この写真はそのとき札幌で撮影したものです。 どういう区別なのかはっきりしないのですが、普通の塗色とは少し違って、色そのものは同じなのですが下部のベージュ色の部分が太くなっています。517-4110や4111も同じ塗色だったので 517形を含むサイドシート車はこの色だったようです。 でも 中扉なのでワンマンバスということで塗色を区別したのではないようです。 ![]() ② 64x-xxxx 光市内 ’64年3月26日撮影 国鉄バスで最初に出会ったワンマン運転ができる2枚扉のバスです。 写真が悪くて車両番号もはっきりしないのですが、このときワンマン運転されていたかどうかはわかりません。 ボディの塗色も金茶色の部分を2分割して多分このバスはワンマンバスなのだよと乗客に注意を促せていたのでしょう。 ![]() ③ 643-3905 呉市内 ’64年3月26日撮影 札幌同様 広島も国鉄バスファンにとってとても魅力のあるところでした。 広島駅の西口からは 呉市内方面やその他あちこちにむけて頻繁に発着していました。 また海田市には国鉄バス屈指の大きな営業所があり、標準レンズしか持ち合わせの無い私にとってはちょっと苦しかったのですが、沢山の写真を撮ることが出来ました。 このバスは広島紙屋町と呉十三丁目の路線に使われていたものです。 当時まだ余り普及していなかったエアコンを装備しエアサスとエアコン両方装備の900番台のナンバーが自慢そうです。この塗色も高速道路を走る路線と同じ、メカ的にも高速道路用バスと共通点があったのでしょうか? 現在この区間はJRバスとしては以前ほどの活気がないように思えるのですが。後ろの大きな鍼、灸の看板とともに時代の遷りを象徴している??? 灸のことで思い出すのは、小学生の高学年の頃だったと思います。親友に羽△隆君というのがいました。よくボールなんかで道路で遊んだのですが、羽△隆君暑くなるとすぐ上着を脱いで上半身裸になる癖がありました。背中には5つか6つ大きなお灸の痕がついていました。あるときいつものように遊んでいる途中暑くなって上着を脱ぐといつもと違って真っ黒になったお灸の痕がありました。どういうわけで据えられたのかわかりませんが、お灸を据えられてすぐ遊びに出てきたようでした。 ![]() ④ 513-4023 海田市 にて ’64年3月26日撮影 小規模の営業所にはよく小型トラックが配車されていましたが、ここ海田市ではこの写真のように約10年間の営業用としての役目を全うした車をライセンスプレートの色からもわかる通り事業用として使用していました。 いすゞのこの形としては初期の型、番号からわかる通り’54年式です。 ![]() # by qqmemoir | 2006-04-05 13:50
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