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① 福島県南交通バス 白河駅前にて'60年9月11日撮影
国鉄バスのコーチ型では日野の床下エンジンやいすゞやふそう製などの後部エンジン以外は確認していないのですが、この2台は多分運転席のすぐ横に大きく膨らんだカバーの中にエンジンが設置されたキャブオーバータイプのようで、まだまだ運転席から遠くはなれたエンジンをコントロールするには技術的に難しかったのでしょうか。メーカーはどこなのかはっきりしませんが、ひょっとしたらトヨタかもしれません。 ②ロンドン2階建バス 八重洲口にて’69年8月撮影 東京で英国フェアーが開催されたとき英国から運ばれたロンドンの2階建バスで、国鉄バスの撮影に行った時のものです。何年か前にロンドンでこのタイプのバスにも乗りましたが、最後部に設けられた階段がかなり急だったこと、車掌は1階にしかいないこと、下車の合図は車内に張られた紐を引くこと、バスストップの名前は忘れてもホテルの名前を言えば停車してくれたことなどなど、10年程前のことなのですが懐かしく思い出されます。ロンドンではこのタイプのバスは既に廃止され、全てドアーの付いた2階建バスに替わったそうです。 それにしても日本のバス、一部の例外区間を除いて全長12メートル以下、15メートルとまではゆかなくても諸外国で見られる13.5メートルに比べても迫力に欠けるように思います。道路事情も良くなっているし、もうそろそろ全長の規制を緩めてはいかがでしょうか。最近私の住んでる町(市)でも中型バス(国鉄式にいえば3xx)が少しづつ導入されてきました。バスの場合大は小を兼ねるのですが、小は大を兼ねることはできませんが。大気汚染とか騒音とか世間の情勢から導入されたと思うのですが。 ③濃尾バス 下呂温泉にて’61年10月頃撮影 入社して最初の年、課内旅行で下呂温泉へ出かけました。私がバス好きだと知ってた同僚が教えてくれたので急いで撮影しました。私が自分で現物を撮影した一番古いバスです。ラジエーターむき出して強いてグリルといえば4本のバーだけ、多分昭和22、3年頃の製品ではないでしょうか。でもライセンスプレートもきちっと取り付けられています。でも10年以上も使われていると見えて、タイアを始めあちこちに寄る年波を感じさせます。この写真、少し加工して自分がバスファンだったことを一刻も忘れることが無いようにと、マックの壁紙に使っていました。 ④ 車番不明 三田市母子近郊にて’00年ごろ撮影 やっとJRバスが出てきました。あちこちで営業所は廃止になり、国鉄バスファンにはとっても寂しい限りなのですが、このような廃車になって農家の物置代わりに使われているのを見るとむなしさも倍増してきます。このような風景はあちこちで見られるため、珍しいことではないのですが、広い意味での資源の再利用だと思って自分を納得させています。 ⑤ 537-2557 館山営業所にて’60年代後半撮影 あちこちで見られる観光用のトップドアーバスです。ライセンスプレートナンバーがちょうど1000番というだけで、現在のように希望番号制度が採用されていれば特に注目することもないのですが、その制度が無い時代、0を3つ並べるためにはその確率は1/1000と結構大変??? いま懸命にアルバムを探しているのですが、五条と新宮を結んでいた国鉄バス五新線の開通初日乗車時の写真、みつかればアップします。 今まで国鉄バスを中心に何枚かの写真を見ていただきました。思いつくままにコメントしましたので、後で読み返してみるとつじつまがあわなかったり、間違い(部外者が部外からみた独断ですのである程度は大目に見ていただけるとして)があったり、誤字、脱字、仮名使い、テンスの不一致などなど。もう一度しっかり読み直して少しづつ仕上げてゆきたいと思っています。写真も一部はプリントアルバムから取り込んだので画面が汚く感心しません。フィルムからしっかり取り込んで、出来ればもう少しきれいな写真を準備したいと思います。 △△ あまりにも偏りすぎたくだらない写真をながながと見ていただきありがとうございます。 引き続きqqmemoir2を準備しましたので、こちらもよろしくお願いします。 #
by qqmemoir
| 2006-05-01 08:49
①543-37 篠山宇土観音バス停付近 50年代半ばの撮影
道路の舗装がまだまだ十分でなかった頃です。道路は洗濯板のように凹凸ができ、乾燥していると大変な砂埃なのですが、この日は少し湿り気があると見えて砂埃はたっていません。このバスは543-36とともに篠山営業所に最初に導入されたコーチ型で、一部路線の重なっていた神姫バスには既に何両かのキャブオーバー型が導入されていましたので、国鉄バスファンにとっては待ちに待ったコーチ型だったと思います。方向幕が低い位置にあったのと、後部最上部に大きなエンジン室への空気取り入れ口があったのが外観上の特徴でしょうか。 ②顕彰碑 水口営業所近郊にて’50年半ばの撮影 水口営業所は市街地の中心部から、国道1号線沿いの広い場所に移転しました。そのすぐ裏山は公園になっており、途中にこの菅健次郎氏の碑が建てられています。説明によると氏は水口出身で、国鉄(省營)バスの創設に尽力されたようです。 何かで知ったのですが、愛知県の瀬戸市近郊にも国鉄バス創設者(?)の碑があるそうですが、そちらは多分瀬戸市近郊の国鉄(省營)バスが、日本で一番早く営業を開始した場所なので、その行為に対して建立されたと思われます。 ③583-7501 新居町駅前にて’50年代半ばの撮影 以前からいろいろと改良は加えられていたとは思いますが、基本的には車体を懸架するスプリングは金属、それに替わって空気の圧力でスプリングの役目を果たそうと開発されたのが空気バネ、メーカーによりいくつかのタイプがあったようです。これは国鉄で最初に導入されたエアサスのバスです。画面では確認し難いのですがちょっと奥目の583型 懐かしいですね。57年式としては新居町以外では確認していません。58年になるといくつかの営業所にも導入され、さらに59年には導入されたバスの大半がエアサスになったようです。58年まではボンネット型のバスも導入されたのですがそれ以降はコーチ型だけで、エアサスのボンネット型は無かったようです。 ④ 一関にて’62年10月撮影 東北地方の主要都市一関です。 今から約50年近く前の姿です。天候のせいもありますが、どことなく石炭の匂いが漂ってくるような気がします。バスが一台トラックが二台、貨物輸送も活発だったのですね。両国のように貨物だけを取り扱う営業所もあったようです。このトラックのようなテント地による幌、最近は余り見かけなくなりました。 ⑤513-0612ほか名古屋営業所(支所?)にて’60年代半ばの撮影 名古屋と瀬戸市を結ぶ路線は、主として瀬戸営業所の受け持ちだったようで、また営業所自体が市街地にあったためか、名古屋営業所(支所?)はこのようにちょっと寂しい感じがします。写っているのは手前が513-0612、一番奥が673-1516です。 ⑥413-1906 落合にて’60年代半ばの撮影 国鉄バスを写真に収めるべく四国を一回りしたときの様子です。高知から松山へ向かったのですが、途中で三輪トラックが、道路脇の窪みに車輪をとられしばらく時間をとられたりと、アルバムにはいろいろと当時の雰囲気が収められています。道路事情も良くなかったこの頃、たとえ10分でも早く目的地へ着きたいというようなときには、この特急バスも重宝されたのでしょうね。座席指定やエアコン装備もきっと評価されていたと思います。 #
by qqmemoir
| 2006-04-30 10:42
① 331-5501 篠山町内にて’66年頃撮影
篠山川を挟んで対岸からS社の望遠ズームレンズで撮影したものですが、画質がもう一つも二つも満足できません。そのS社もとっくの昔になくなりました。このバスの塗色は白と濃いピンクとグレー、かなり派手な印象でしたがこのような小さなバスには合っていたのかもしれませんが、数も少なく長続きしなかったように思います。コーチ型では一番小さい方ですが、エアサスも付いて座席優先のサービス重視、国鉄バスとしては一番力の入っていた頃ではなかったでしょうか。 ② 477-7031ほか 宇都宮営業所にて’66年4月撮影 477型ばかりの配車群、これだけ同一車種が並ぶと見応えがしますね。舗装もされていない敷地、中程の窪みにはゴミらしきものも見られます。約10年間地域の人たちの大切な足として働いてきたこれらのバスそろって廃車のようです、後はスクラップになってまた次の製品として利用されるものと思います。でもライセンスプレートは取り外されていますが、車体側面のツバメマークや社番もそのまま残されているのもあります。ひょっとしたら他府県への配置換えでしょうか。いずれも導入後10年近く経っていますからその可能性は薄いと思われます。左から477-7031、6010、7030、xxx7、7029です。 ③543-909 山口営業所にて’50年代半ばの撮影 関門トンネルの開通により、博多と山口を結ぶ路線関門急行線が営業開始に伴い導入されたバスです。車番を特に900番台と区別しただけあって、外観上も普通の543型よりボディが長くなっています。まだ付番基準に年号が入っていない頃です。当時の時刻表によると所要時間は4時間55分で、料金は500円とあります。なんとかして5時間を切りたいという努力の跡のようにも読み取れますが。 ④743-8007 海田市営業所にて’64年3月29日撮影 上記③と同一車種と思われます。 山口、福岡だけでなく広島にもということで1年遅れて導入されました。この間に付番基準が改められ、この長尺ボディには743が割り当てられています。本格導入とはいえなかったようですが、あちらこちらに500番台のエアサス車も導入されているのですが、この743型はリーフ、他社には余り見かけられなかったタイプだけにエアサスには踏み切れなかったのでしょうか。このように大きなバスなのに方向指示器はまだ矢印形のバーが横に出る腕木式、今から思うと滑稽ですね。 ⑤437-9140 浦河にて’64年10月撮影 襟裳岬をぐるっと回ったときに撮影しました。広尾で一泊したのですが、この時期にしてはかなり暑かった記憶があります。手前の横断歩道のパターン、市松模様のようになっていますが、いまは単なる縞模様ですよね、確か。 ○ 終戦直後食料事情の良くないときに、私の住んでる町に食糧営団の事務所があり、そこには黄緑色のトラック(3トン積みぐらい)が配置されていました。T貨物、銀バス、Sバス、国鉄(省營)バス以外で個人所有といえばT油店の小型トラックぐらいしか覚えていません。その頃の自動車といえば、故障していても当たり前のような時代だったのに、この食糧営団のトラックだけは一度も故障をしたのをみたことがないという記憶があります。点検が十分されていたのでしょうか、大切に扱われていたのでしょうか。 #
by qqmemoir
| 2006-04-29 09:55
①513-4050 金沢営業所にて’61年12月撮影
私の住まいから比較的近い場所にありながら、今まで一度も訪れたことの無い金沢営業所、道順などは忘れましたが、金沢駅からは裏手の方にかなり離れた場所にあったように記憶しています。このバスもいすゞのかなり古い形、私の写真の中では年式の確認できるいすゞのコーチ型としては一番古い54年式です。前部もいろいろとデコレーションが付いています。ライセンスプレートはオレンジ色に黒文字の小板タイプ、でも車体には大板も取り付け出来るように準備はされているようです、それともこれはデコレーションの一部だったのでしょうか。 ②671-9019 館山営業所にて’60年4月29日撮影 入社して最初の祝日を房総半島館山での国鉄バスの写真撮影に出かけたようです。方向幕には本館山となっています。国鉄バスの駅名には本館山、本篠山などのように本と付くのがいくつか見られます。本の付かないのは鉄道の駅のようです。鉄道では同じ市内の駅に市の名前をつけるときには新△△と言うのが多いようです。東京の中央線では快速と特別快速、大阪の東海道線などでは快速と新快速、名古屋では快速と特別快速と新快速、関東関西双方の良いとこ取りでしょうか。 ③513-7119 陸前高田駅前にて’63年9月撮影 方向幕は臨時便となっていますので、学生相手の増車なのかもしれませんが、窓からの降車、子供だとはいえまだこの頃は見られたのですね。私の経験したのは、さらに後の昭和50年代前半土曜日などよく帰社時に高校生とよくバスに乗り合わせました。そのとき住宅地をひかえた南陽台バス停では、早く降りた学生が窓から後の方から降りる友達に定期券を手渡しているのを目撃したことがあります。 ④643-0549 広島駅前にて’60年代前半撮影 このバスは本シリーズ11⑧で見ていただいたバスです。私の知る範囲では国鉄バス唯一の軽合金バスなのですが、この時点では標準色に塗り替えられていました。軽金属の金属色のまま無塗装で活躍した期間は余り長くは続かなかったようです。昭和39年9月のメモによると、部外者が部外からみた塗色には大別して5つのタイプがあったようです。 1. ボンネット型の全て、ダークグリーンとクリームの2色塗り分け 2.ダークグリーンとクリームに加えて金茶色の3色塗り分け、3.窓周り淡いクリーム、屋根と腰周り赤みがかった桃色、下部淡いネズミ色で塗り分けは水平に直線的 4.ピンクとグレーと白の三色塗り分けで中程に白とグレーがクロス、中距離用のリクライニングシート付き 5.ブルーとグレーと白の高速バス。3、4の赤系統のバスは数的にも少なく長続きしなかったように記憶しています。 ⑤番号不明 海田市営業所にて’61、2年頃撮影 海田市営業所の一番端っこにこのバスを見つけました。フロントガラスなどは2台ともきれいに取り外され、流用を考えていたのでしょうか。フロントガラスの形状や方向幕の位置などは、54年式とよく似ているのですが、54年式と違って方向幕の左右に伸びる5本のメッキグリルが無いことと、フロントガラス部に外部の日よけの庇が無いことです。番号が写っていませんのではっきりは分からないのですが、多分53年式、だとすると三菱車では私の写真の中で唯一のものです。 #
by qqmemoir
| 2006-04-27 16:22
① 534-0527 園部駅前にて’67年1月8日撮影
地図の上からは京都府のほぼ中央に位置する園部、気候的には山陰地方の気候に近いようです。この日も少し雪が降ったと見えて前部には正月飾りも雪をかぶっています。わずかに後輪にチェーンを巻いているのが見えますが、積雪のない道路での走行は乗客にとってはあまり好ましないようです。またチェーンの取り付け取り外しもタイアが大きいだけに大変だと思われます。今年は非常に雪の多い一年でした。雪のことで忘れられないのは、本当にずーと昔、思い出してみると昭和40年代半ば、私の勤め先が手狭になり、本社部門をあの霞ヶ関ビルに移すことになりました。日本で最初の高層ビル36階建てのオフィスビルの24,25階と26階の一部を借りることになり私も24階の事務室でデスクワークをしていました。地下鉄虎ノ門駅からオフィスまで歩いて数分、ある時東京の都心にも雪が積もりました。地下鉄を降りてオフィスまで雪の積もった歩道を転ばないように賢明に努力したのを覚えています。その年の夏頃だったでしょうか、アルコール分のないビールの試飲会がビルに隣接した建物の中でおこなわれ試飲したのを覚えています。いまもノンアルコールビールが市場に出回っていますが、私の口には.......これならまだトマトジュースのほうがいい。 ジュースのことで思い出すのは、もう10年近く前ベトナムへ観光旅行に行きました。 ホーチミン市内の観光を終え、暑さを避けて喫茶店で一休み、何か日本にはないような珍しいジュースを飲もうということになり、メニューを見るといろいろ書かれている中でキューカンバのジュースというメニューを見つけました。しばらくしてキューカンバのジュースがテーブルに置かれました。そのとき持ってきたお姉さんが何か薄笑いをしているように見えました。そして届けられたジュースを飲んでみたのですが、ただただ青臭くってとても飲めたものではありません、キューカンバの意味を恥ずかしながら理解できていなかったためと、キット何かいい飲み方があるに違いないのですが、それも知らなかった。 ②213、342ほか福知山派出所にて’50年代中頃撮影 国鉄のバス部門の現場組織として、営業所がありその下部組織として派出所、支所があるようでした。派出所と支所は組織的に上下関係があるのか、時期的に名称が変更になったのか部外者には分かりません。福知山は檜山営業所福知山派出所となっていましたが、現在は逆転しています。確か最近檜山支所は廃止されたように思います。派出所は福知山駅を出て左手に進むと直ぐのところにあり、今でこそ敷地内はきれいに舗装されていますが、当時はただの空き地にバスが停まっているという感じでした。でもJRになってからの合理化で次々と営業所が廃止されてゆく中でここは今のところ安泰、ズーッとこの状態が続くといいのですが。方向幕の部分の塗装が違うだけでずいぶん受ける感じが違います。中央のが明るくて両端のが暗い感じがします。右手の建設中の建物は病院だったと思います。 ③673-8091 一関駅前にて’62年10月撮影 今は新幹線が通る一関の45年前の姿、駅前の寿司屋に向かうのでしょうか一人の男性、最近の一関はどうなっているのか知りませんが、少し裏通りに入るとこうした情景も残っているといいのですが。舗装のない広場といい、放置された多くの自転車といい時代を感じさせます。58年式のバスですから当然ウィンカー式の方向指示器ではなく腕木式で矢印の形のバーが水平方向に飛び出す方式でした。よほど注意してないと見落とすかもしれません。前部と後部屋根には中央に3つと左右に一つづつのライト、今の大型車のように意味のあるものではなくただ単なる装飾???だったと思っています。 ④ 534-6503 直方営業所にて’60年代後半撮影 直方と博多の間にはかなり頻繁に国鉄バスが運転されているのを時刻表で知りはりきって出かけたものでした。バスの直前で子供達が石を積んで遊んでいます、のんびりしていたのですね。この子供達も今は働き盛り、年月の過ぎるのが本当に早いと感じます。 ⑤ 仙台営業所 ’62年10月撮影 東北地方の中心地仙台だけあって、バスの営業所の車庫も立派、でもまだ舗装はされていません。それよりも気になるのは左端のバス、塗色からみて国鉄の営業用のバスではないようです。事業用に使用されているのかもしれません、いずれにしてもかなり古い形、いすゞの’53、4年ごろ製品だと思われますが。 ⑥521-8008 坂の市にて’60年代後半撮影 合理化の一つだったのでしょう、少しづつワンマンカーが導入され始めました。国鉄バスで最初にワンマンカーに出会ったのは光市でした。勿論ツードアーで塗装も車体中央の金茶色の部分を二つに分割し区別していました。ここ坂の市でも少なくとも’67、8年型の数台のワンマンカーが導入、運用されていました。塗色も側面の金茶色の部分の幅に段が付き、特に前方から見た感じはずいぶん明るく軽快になりました。この塗色はワンマンカーを意識したものではなく、新しい標準塗色として制定されたもののようで、あちこちで見かけました。 △△ 20年程前のことです、京王線で通勤していたのですが、途中のC市の駅前の書店では店の前に置かれた通勤客の放置自転車に困ったと見えて、その場所に「不要自転車置き場」と書かれていたのを思い出しました。逆手を突いて効果があったのかも。 #
by qqmemoir
| 2006-04-25 17:55
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